「吾輩は犬である」、その1



 吾輩は犬である。名前はすでにある。しかし教えてはやらん。
 生まれは埼玉である。生まれる前から血統なんたらまである。吾輩は由緒正しき犬である。最初の記憶は目が見えなかったのでよくわからん。うすぼんやりした中あっちへふらふらこっちへふらふらごっつんしていると何やらいろいろな手に持ち上げられた。吾輩はここで初めて人間というものを感じた。ようよう目が見えるようになってまじまじと見つめてみると実に妙なものだ。第一に毛の皮をとっかえひっかえしている。のみならず顔の上までとっかえひっかえする。どうにも鼻にくしゃんときて弱った。これが化けるというものであることはようやくこの頃知った。
 隔離された部屋で兄弟たちと飛びまわっていたら見知らぬ男女がやってきてこの家の人間たちとなにやら話しあっている。すると「もう六十日ですからよござんしょ」「この子が一番元気ですから」と男の腕の中に渡されてしまった。
 しばらく細君の掌の中でよい心持でいたらご主人が運転し始めた。吾輩初めて車なるものに乗ったのだが実に気分が悪い。ご主人の運転は安全運転なのだが吾輩はころころと体の置き所の按配がよくない。体をぐっと気張ったのであるが吾輩はここで初めて吐いてしまった。おかげで車というものが実にいやになった。
 家に着くとそこには男の子というものがいた。しかも後で聞くとそれは人間中でも一番邪悪な種族であたったそうだ。吾輩は最初にフライング・アタックを食らわされた。
 ふと気が付いてみると見知った顔は一人もいない。たくさんおった兄弟も一匹も見えぬ。肝心の母親さえおらぬ。見れば猫が一匹おる。あやつは吾輩を見るなりシャーと口を割いてきた。それきりまったく吾輩の存在がなきがごとくふるまっている。吾輩はすぐさま猫が女主の所有物であることを見抜いた。何事にも序列というものは第一であると小さき今から心得ておる。ゆえにこの家でこの猫が一番の王様であると認識した。以後吾輩は猫にはいっさい逆らわぬと決めた。しばらくすると要求もせぬのに飯がでてきた。特に腹が減っていたわけではないのだが出されたものは食べるのが礼儀というものである。がつがつ食ってたっぷりと水を飲む。すぐ催してきたのでそこらで用を済ませると細君が飛んできてシートを置いて、こんなことを毎日するのかと剣呑な顔をする。ご主人は黙って床を拭いていた。
 食事の後は少し気が狂うので皿の周りを少々暴れまくったあと疲れたのですぐさまばたりと寝た。目覚めてからは周りを探索することにした。まず家の中を歩き回ってみる。とはいえここでも吾輩は外には出してもらえないのでそこらじゅうに柵がある。故に家の中で行き止まりではあるが。和室が一つ。台所にベランダ、ちょっと大き目なテーブルのある部屋。和室には小さな縁側がある。子供部屋に入るのは身の危険を感じるので入らないことにした。犬の吾輩が見てもいささかちぐはぐな感じのする洋室中心の作りに不釣り合いな和室はご主人の趣味らしく、ご主人は寝る時もこの部屋の畳の上で寝るという。細君はベッドが好きなので別の寝室で寝ている。夫婦とはこのようなものだそうだ。吾輩の寝床はこの和室にしつらえられた。どうやら和室同様吾輩がこの家に引っ張ってこられたのはこのご主人の趣味によるようだ。寝るときは用意されたこのふとんに寝ろと言われたがすぐにご主人の布団にもぐりこんだ。一匹で寝るなんぞさびしすぎてご免こうむる。それになんといっても一等地をまずは確保するのは犬生の鉄則。しかしご主人は犬は犬の領分を守るべしと吾輩の首筋をとらまえて我が陣地の布団に戻す。しばらく様子を見てはまた潜り込む。これを夜な夜なくりかえしてやった。最後に勝ったのはもちろん吾輩である。ご主人は案外に甘い。一番のお気に入りはご主人ののど元に頭を乗せて寝ることだ。吾輩このとき三頭身。大きくて充分重い。ご主人の首の上は大変楽だ。ときどき体全体で寝返りなどをうってごろごろしていると吾輩の金○がご主人の顔あたりにかぶっているときもある。ご主人は怒っているが別段枕もとに移動されられるだけでおとがめなしである。やはり甘い。かくして吾輩はついにご主人の枕もとを自分の住家ときめることにしたのである。
 小さいうちはご主人すぐ吾輩を懐に入れたがるので困った。吾輩は猫ではないのである。窮屈このうえない。実をいうと大きくなっても吾輩を懐に入れたがる困った御仁でもある。そのほかいろいろと困った性癖の持ち主のようで口調もすぐべらんめえ調になる。自分を江戸っ子だとも思い込んでいるようだ。しかし生まれた武蔵野は江戸ではないだろう。職業はいまだに知らん。なにやら作っておるそうな。ところでこの家に連れてこられてしばらくして吾輩の母親はどこぞへと行方不明になったという。何匹もいたわが兄弟姉妹は吾輩のように生まれて数か月もするとあっちへ貰われこっちに貰われていつのまにか母親のもとからいなくなる。そんなことを数回繰り返しているうちに今度は母親がいなくなったというわけだ。今も吾輩たちを探しているやもしれん。ご主人はその話を聞いて犬にも心があるのかと実に失敬な事を言っている。そこで吾輩はわがご主人の名前を「あんぽんたん」と命名することに決めた。これが吾輩のボスである。
 こんな失敬なご主人であるがあるがよいところもある。食事の時間はテーブルの下でおこぼれを待ち構えるルールにずっとなっている。ご主人は「余計なものを食べさせるな」といいながら一番なんでもくれるのでこの時間はこの吾人の下がベスト・ポジションになる。細君は決まったときに決まったものしかくれないのでこのときは足元に行かない。パブロフの犬である我々は当然のごとくよだれも出る。このよだれが床にたれると細君は嫌い、そうするとご主人がせっせっと床を拭く。子供たちも最初はあまりくれなかった。吾輩がばくりと指先ごと食ってしまったので嫌がったのである。指を食ってはいかんと言われてもターゲットをつまむ指をよけて吸い出すように食い物だけ食べろと言われちゃあ無理がある。無茶を言われても困る。まあそのうち人間の方が学習して掌に載せるようになったので事なきを得るようになった。このように子供たちも学習するようになったので第二餌場に昇格したのであるがそれでもトラウマになったのか怖がってときどきしかくれない。なんといっても第一位はあんぽんたんである。一説によると細君のごとく誰も食事の時におこぼれをくれない家庭もあるという。そうなると犬も食事どき見向きもせず遠くで眠っているという噂だ。我が家ではこんな非犬道的事態は起こらない。あんぽんたんはどこまでいっても甘いのだ。
 夜の定位置は確保したのでよいのだが昼間は困った。一匹でいるなんぞ御免こうむる。あんぽんたんはよく昼間でかけるのでなんとか要員を確保しなければならない。特に食後のひと暴れの時間の人員は確保しておかなければならない。外に出られないのだからどうしたって家の中に確保しなけりゃならない算段だ。隣からご同輩の声が聞こえるのであるがまったく姿は見えず。王様は最初から問題にならない。一応お伺いを立ててみたのであるが例のシャー一発で終わってしまった。細君は何やら用事をしているところへまとわりついたら険悪な雰囲気になる。仕方ないので危険を冒して子供部屋に潜入するしかなくなった。案の定男の子は吾輩の尻尾を捕まえて振り回す。吾輩の太くて立派な尻尾は充分バットとして通用する。フライング・アタックは生死にかかわるのでなんとかかわしてやった。そうそう何度も食らったら堪らん。まあ吾輩が大きくなってからは反対に吾輩がフライング・アタックを食らわしてやったのであいこである。姉なる女の子はそんなかわいそうなことしちゃだめよと言いながら目が笑っている。実に底意地が悪い。そのうえ飽きるとふたりとも吾輩を細君のもとに送り届けて終わりである。癪に障るのでこの二人には当分名前を付けてやらぬことにした。しかし細君が買い物に出かけ子供たちが学校なる怪しげなところにいなくなると困った。どうしたって一匹だ。王様は役に立たんので数に入らない。しかも細君吾輩が悪戯しては困るといってゲージに閉じ込めて出かける。こうなっては致し方ない。吾輩往生際は悪くない。ひたすら寝て待つことにした。
 最後の予防注射を受けに熊五郎の所に行くことになった。がたいもよいのだが熊の保護とやらをやっているまさに熊先生である。この先生脳卒中というのを一回やったのにまだビールを飲んでいる。二十四時間受け付けてくれるいい先生なのだが夜伺うとちょいと手が震えている。まあ注射はうまいので大丈夫ではある。病院の近くに来ると震えて動かなくなる手合いもおるが吾輩はこの先生好きなのでまったく平気である。同輩のにおいもいっぱいするので尻尾を振って率先して医院の中に入っていくので受けもすこぶる良い。あんぽんたんとよく長話をしているので部屋中を嗅ぎまわって自由にしておる。
 予防注射が終わったら監禁生活から解放される。さっそくあんぽんたんが吾輩を散歩に連れ出した。散歩デビューだそうだ。そうするとどこから湧くのかぞろぞろうじゃうじゃと同輩が出てきて毎日囲まれ続ける。都会とは恐ろしい。いつもはどこぞに隠れていて見えないのにとにかく湧き出てくる。特に子犬の時は集客力があるようだ。散歩の時間は犬のラッシュアワーである。兄貴とはこのとき初めて会った。兄貴からはメス犬のお尻を追いかける方法と藪の中を散策する楽しみを教わる。しかしこのときはまだ子犬なのでもっぱら兄貴について行って藪の中を散策しただけだ。メスのにおいというものはまだわからん。逆に子犬の吾輩がみんなにお尻のにおいをチェックされる側になる。兄貴は女性のスカートに入り込むのが実に得意だ。これは吾輩も面白いのでおおいに真似をしたが、いつもあんぽんたんが困った顔をして必死になってひっかかるリードを操っている。これが奇妙でさらに面白い。兄貴は争いが嫌いなので周りに剣呑な雰囲気がない。スケベな性格はこのとき大いに学習して後に役立てることとなった。
 「うわー、かわいい。」
 こんな風に女の子が寄ってきたときがよい。一人より何人かで集まった時が特に良い。こんなとき吾輩は引付役である。吾輩をきゃあきゃあ言って撫で回していると兄貴は音なしの構えで後ろに回り込み、そっとトンネルを抜けておもむろに顔を上げる。そして何事もなかったように兄貴は女の子たちに愛想を振りまくる。これでお咎めなしである。決して我らに邪気があると思われては困る。ただ楽しいだけである。うけるものは何度でもやる。それが犬というものである。しかし犬でも人間でも何回も繰り返しているとだんだん確信犯的にはなってしまうのは致し方ない。兄貴は女の人のお尻の匂いをかぐのも得意だ。これも吾輩は見習った。こちらの方はどうもどこでも不評だ。特にあんぽんたんの鉄拳を必ず覚悟したうえで実行しなければならない。兄貴も吾輩もやめられないのは仕方ないのだ。これは習性なのだ。第一、男の匂いなどを嗅ぐ気などさらさらないのだからわかろうというものだ。人間はいつまでたっても理解してくれない。
 外は天国である。実によい香りに包まれている。ある時などはとんでもなくいい匂いの食い物の匂いがしたのであんぽんたんを振り切ってその食べ物に突進した。そいつは大切な宝物を隠すように地中深く埋まっている。しかし吾輩の優秀な鼻にそのような小細工は通用しない。猛烈な勢いで掘り返しすぐさまぱくりと食ってやった。そこへあんぽんたんがものすごい形相でやってくる。多少これはまずいかなとは思ったが、吾輩には悪気などないので尻尾を振って主を迎えてやった。そうすると主は吾輩を抱え上げ口に手を突っ込んできて吾輩の舌を引っこ抜こうとする。どうやら食ったものを取り出そうとしたのだがとっくの昔に腹の中なので頭にきて吾輩の舌に八つ当たりしたようである。そしてそのまま蛇口の所まで連れて行かれ溺れそうになるくらい口の中を洗われまくられた。こんなことをされようが香しい香りにはかなわない。何度でも突進してやった。しかしあんぽんたんの猛烈な抗議は終わることがなく凄まじくとうとう吾輩の方が降参してしまった。ああ、誘われる匂いがしても振り返り振り返りしぶしぶあんぽんたんの後をついていく。主の話ではこの最高の食い物は子犬のうんちだそうだ。それも若ければ若いほど未消化なものを吾輩は好んでいたそうである。うんちは埋めずに持って帰れと我が主は怒鳴っていた。
 あんぽんたんはどこでも連れて行ってくれたが、子犬の時はまだ体がしっかりしていないから遠くまで連れて行ってはだめだと誰かに言われたらしく近くしか連れて行ってくれない。そして都会はアスファルトが多く土が少ないからと言って例のごとく自分の懐に吾輩を入れて帰ろうとする。迷惑千万である。
 ある日、日に三度の散歩を確実にこなしていたらまたもや香しい匂いがしてきた。吾輩は迷わずあんぽんたんを振り切りその匂いに突進した。匂いの元を発見した時はぱくりと行く。お腹が満足したので周りを見回してみた。なにやら周りの人間は箸を持ったまま口をあけてぽかーんと吾輩を見ているのでとりあえず吾輩は尻尾を振り振り最高の愛想で答えることにした。そこへあんぽんたんが追い付いてきて空のパックを見るなり、
 「申し訳ない、申し訳ない。何を食べてしまったでしょう。弁償させていただきますので。」
 「ははは、いいですよ。最初びっくりして何だかわからなかったですけど。かまいませんよ。」
 彼らは行楽客というらしい。地面にシートを敷いて家族などで集まって楽しむのだそうだ。彼らは吾輩を歓待してくれた。シートの中にお邪魔すると別のおいしそうなものをわけてくれるのでもちろんおいしくいただいた。あんぽんたんはそれなのに吾輩を無理やり引っ張り出してやたらと謝っている。まったく気のいい連中なのでまたお邪魔しようと思う。
 散歩は実に楽しい。ちょっと高台をぴょんぴょんぐいぐい歩いていたら首が急に軽くなった。なんだろうと振り返ったらあんぽんたんがいない。ちょっと不安になったのであんぽんたんを探してみたら崖の途中にいる。吾輩を置いて一人で崖を滑り降りようなんてずるい。飛び降りなんて楽しいことをあんぽんたんだけにさせておくなどできん。吾輩も飛び降りた。あんぽんたんの所まで行って吾輩も来たぞと目をきんきらきんに輝かしてやったら殴られた。そればかりかせっかく降りてきた崖を無理矢理リードで首を引っ張られながら上がっていく。まったくあんぽんたんは勝手な奴である。
 吾輩たち犬というものはどこか飼い主に似てしまうのかもしれない。毎日顔を合わしているのだからしょうがない。そのうち飼い主も吾輩たちに似てくるのだろう。しかし犬の飼い主というのは犬のことしかしゃべらない。他の犬に会うと犬ほったらかしで井戸端会議が始まる。
 「私、この間あそこのスーパーのコーナーで安売りの牛缶をいっぱい買ったわ。」
 「ああ、あれね。私もつい安いので買ってみましたよ。犬の食費も馬鹿にならないですからね。でも中、真っ赤で何か得体が知れないじゃないですか。止めましたよ。」
 「それならアメリカの○○社の固形がいいですよ、成分表示がしっかりしていて品質管理はよさそうだし。ちょっと高めですけど。」
 「家は全部ドック・フード缶です。」
 「えー、それじゃ本当に食費大変でしょう。」
 犬好きでもない人が聞いたらどうでもいい話を小一時間もした後、しばらくして似たような話を別の所でする。吾輩は短毛なのでまったく関係ないのであるがトリミングの話になるとどこの店が安くてうまいなどと長毛の犬の飼い主の会話が頭の上を行き交う。もし自分の犬が少しでも面白そうなことをしたら大変である。まったくどこにそんなに尽きぬ話のネタがあるのか吾輩たちのことながら不思議でしょうがない。とにかく吾輩たちの話ばかりが延々と続く。だから犬のご主人の素性のこととなると関心の外、さっぱりわからない。それどころか名前すらしらない。わかるのは何々ちゃんのおとうさん、おかあさん、お姉ちゃんとかだけだ。なぜかお兄ちゃんは少ない。しかし意外にお父さんは多い。あんぽんたんの話では小さいとき飼えなかった仇を大人になってからとっているのだろうという話だ。人間も犬同様悩みは尽きぬようだ。全体としては女の人が多いというだけで吾輩には好都合なので素性のわからぬというこの話は不問に付すことにした。
 家の中では監禁されていたとはいえ自由に飛び回っていたのに外に出たとたん繋がれた。井戸端会議の間だけでも勝手にさせてくれればいいのに不自由この上ない。生殺与奪、恋路も、それどころか犬友の選択権まで奪われている。犬に犬権などというものは結局ないのである。長いものには巻かれることにしている吾輩にはさして気になりはしないのではあるが。あんぽんたんは結構まめなので仲間も多い。犬友に会うことこれ事欠くことなし。それとしてもあんぽんたんをまず攻略しておかないと話は始まらないのが道理なので毎朝きっちり挨拶することにしている。吾輩のつぶらな瞳がキラキラ光るだけで話が分かるまで教育したのでことさら自由を叫ぶことはしないことにしている。
 しかし世の中には本当に自由で能天気な犬もいる。飼い主が能天気なのかどうかは知らんがおそらく飼い主の能天気が移ったのであろう。リードがどこまでも伸びるのでどこへでも自由に走り回り、どの犬へもひらひらと渡り歩いて勝手にからかっている。お互い小さい者同士なのでじゃれあっているだけであるがいつまでも飛びついてきて終わりがない。あんぽんたんは勝手に飛び出すのを嫌ってこのころからすでに吾輩をぽかりとやるからこの会合に参加することはあまりなかった。吾輩は結局あんぽんたんの横にいるが運命なのだろう。結局彼とは知己になることはなかった。しかしこの自由はいささか魅力的ではあったので彼にそのまんま能天気と名をつけてやった。彼とは遠くで他の犬とじゃれあっているのを見たことはあったがそれきりとなった。
 犬の話を犬好きでもない人がさんざん聞かされたらさぞ退屈であろう。あんぽんたんも犬の話ばかりいつもしているわけではない。むしろいろいろなことにすぐ手をだし細君にほら飽きたといつも冷笑を浴びせられている。吾輩も飽きられたら堪らんのでなんぞ手を打つべきところであるが、最近も何を思ったのか電子塗り絵全盛の時代に今こそ油絵のときだと細君を拝み倒して油絵の道具を買ってきた。それも近くで買えばいいのにわざわざ新宿まで出かけていって世界堂とかいうところで買ってきたという。どこまでも形から入りたいようだ。覗いてみたらキャンバスにパレット、油絵の具のセットに筆が太いのと細いのが二本あるきりだ。なにやら華奢ないかにも安そうなイーゼルまでもがある。筆が二本しかないのは本人曰く弘法筆を択ばずと言っているが値段もわからず買いに行ったのでお金が足りなくなったのが真相のようだ。丸筆、平筆の違いも判らないのだから弘法もへったくれもあったもんじゃない。キャンバスはもうすでに張ってあるものを買ってきていたが何号というのかやたらにでかいのを買ってきた。絵は大きいに限るとこれまたのたまわっているのだが最後まで書ききれぬに決まっている。畳の上にイーゼルとキャンバスを置いて、あまり座りがいいとは言いがたい取り合わせのところへ持ってきて汚れちゃいかんと下に新聞紙を敷いている。そこへうっかり何をやっているんだろうと周りをうろうろしていたら捕まってしまった。お座り、動くなと言われたがそうそうじっとしていられるもんじゃない。どこかに逃げたらまたぽかりとやられるのでふて腐れて寝てやった。すぐ飛んできてお座り。いつもの繰り返しの後いつもどおり吾輩が勝って寝ている姿でモデルになることで決着した。そこで主人は木炭を取り出し、それを縦一文字に立て、横一文字に寝かせ片目をつぶって吾輩を眺め始めた。小一時間も続けただろうか決心を固めて描き始めたが吾輩の方はもうすっかりごろごろしていて腹を出して寝ていた。この木炭というやつはどうやら相当扱いに熟練がいるようだ。あんぽんたんは四苦八苦して長い間格闘している。さすがに目が覚めたので主がぶつぶつ言ってる隙に鑑定にいってみたらこんがり焼けた屍か焦げた団子のようなものができあがっていた。とにかく真っ黒だ。これじゃそれが王様か吾輩かはたまた路傍の石なのか好き勝手に判定できる。こんなことを何日も付き合わされたのだから堪ったもんじゃない。モデルは飛び跳ねてていいことになった。
 ようやく色を塗るたくり始めたころ、なんの好きで知り合ったか黒シャツがやってきた。黒シャツに黒のズボン、黒のジャケットとなんでも黒にしたがる。そこで吾輩が黒シャツと命名してやった男である。
 「猫ですか」
 黒シャツは期待通りの問いをした。主人が黙って吾輩を指さすのでああという仕草をして黒シャツも黙って座机の横に座って本を取り見始めた。この男生き物が苦手なのか嫌いなのかともかく吾輩を好きではないようだ。しかし嫌いというわけでもなさそうなので苦手といったところだろう。そこで社交家の吾輩は最初のあった時の挨拶だけは義務として済ましてからはいつも少し離れたところに聞き耳だけは立てて静かに横になって寝ていることにしている。
 「シュールですね。」
 「またダリですか。」
 「ダリならもう少し何が描いてあるかわかります。」
 「これでもディテールにはこだわってるんだがねえ。やっぱアナログがいいじゃないか、君。」
 猫だか犬だかもわからんものにディテールもへったくれもあったもんじゃない。蟻だかダリだかはあんぽんたんの画集で見知っている。やはりなんだかわからん絵を描いておった。黒シャツはこのダリに心酔している。
 「しかしなんでそんなにダリが好きなのかねえ。私はロダンとかデューラーの方がすごいと思うけれどもね。」
 うっかり振ってしまったので一くさりダリの解説が始まってしまう。
 「具象と抽象の中間という人もいるけれどもシュールはシュールです。でも僕はそんな違いよりダリの発想が好きなだけ。」
 主はうんうんとうなずいてはいるがとてもわかって聞いているようにはみえない。我が主は機智などというものとは無縁の男である。頭を回転させなければわからないものなど理解の外である。キャンバスにタバコで穴などあけられたらもうだめである。どこまで行っても具体的な人、まず正当の道を主張する人である。黒シャツは逆にそれを見て嬉々とするタイプなのだ。しかし黒シャツの方は実際に描くことはない。品評して楽しんでいるだけである。この二人の会話が噛み合うはずがない。しかしどこかで不思議に繋がるものがあるようだ。
 能天気にはその後だいぶ経ってから会った。口に何やら咬まされていて下を向いて歩いていた。やたら回りを気にしてすっかり怯えている風である。それまでの能天気はどこへいったのやら。なにやら噂では誰ぞを襲ったとかで歯を削られ口輪をさせられることになったのだそうだ。襲うものは襲われることを理解する。自由を謳歌して自由を失う。ついでにわが身を守る武器も仲間も失った。どこで犬としての料簡を間違ったのだろう。この世は実にきびしく住みづらい。
 夏に里子に出され冷たい世間の風にさらされたが天性の愛想を使いぬくぬくとした布団は確保している。家の庭木の葉は落ちていないが近くの公園の葉はしっかり赤くなった。都会のぬるい風とはいえ冷たい風が吹き抜けるなか、家の囲いは取り払われてベランダで日向ぼっこをしていればもう外に逃げ出す気など毛頭なくなっている。犬には自由というものがないのは小さいながら認識した。とはいえ実は自由というものを経験したことがないので自由とはなんなのかよくわかっていないだけなのであるが。どのみち吾輩一匹で暮らすのはさびしくてとてもできない相談なのであるからこれでよしとしよう。
 悪鬼どもは相変わらず気が向くと相手をしてくれるが散歩にはちっとも連れていってくれない。あんぽんたんがせっせっと日に三度連れ出してくれ、あんぽんたんが用事で出かけると細君も散歩に連れていってくれるようになった。
 日に三度たっぷり飯を食っているのだからいささか太りすぎで健康に気を使わなければならなくなった。人には決して吠えてはならないと教えられているので番犬は御免こうむっている。名前を教えてやたら名前を呼ばれると飯の時間かとすぐ勘違いしかねないのでやはり教えない。文句を言い過ぎなければ結構待遇はいいのでこのまま居座り続けるつもりだ。


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