「吾輩は犬である」、その8



 主はたいそう暇のようだ。人差し指を鼻に突っ込み、庭ともいえぬ庭の先の塀を見ながら、
 「暇だ。」
と言う。
 「誰も通りもせぬ。俺がガキの頃は人の家の塀などは通り道みたいなものだったぞ。今のガキは何をしているのだ。」
 最近は吾輩に独り言をいうのが日課のようになっている。人間も犬に愚痴をこぼすようになると病気というものだ。それほど暇なら吾輩を散歩に連れて行くがよかろうに、それも面倒らしく座机の前でぼうとして座っている。主によれば道を曲がって目的地に到達するより人の家を横断する方がエネルギーの消費が少なく合理的だという。都会では藪、空き地などないから道なき道、家々の塀をひょいひょいと渡っていくのが道理だという。なかなかのバランス感覚の持ち主の集団だったようだ。しかし昨今では塀を渡るなんぞは王様たち猫族ぐらいのものだ。その猫族も嫌われて塀の上にはペットボトルの山か三角のトゲトゲマットを敷かれる始末である。我輩なんぞが塀にのっていたら珍しがられてテレビにでも出られるかもしれぬが人間様がいまどき塀にのっかっていたら即不審者扱いだ。そういえば昔ピンポンダッシュなるものが流行ったというが昨今はまるで聞かない。文明の利器が発達して玄関のベルを鳴らしたところでカメラに写ってチェックされ、そのうえこの頃は記録まで簡単にできるという。悪戯どころではないだろう。へたすりゃSECOMが飛んでくる。主の暇つぶしのネタにするには無理があるかろう。
 しかしなんであんぽんたんがこうまで暇かというと例のよからぬ行動がとうとう細君にばれたのだ。よせばいいのに調子に乗って山にちょくちょく出かけたのである。いくら吾輩をだしにしたところでそれじゃあばれるに決まっている。細君の怒りいかほどのものか。あの強心の持ち主である蕎麦掻が自主的に出入りをしばらく自粛したほどである。二人の間では無言の生活が続いたので吾輩などはどちらに飯を要求したものか、誰に散歩をねだろうか右往左往せざるを得ず、まことに心配した通りとばっちりもいいところなのである。だが細君の判決はなかなか穏便なものであった。生存に必要な必要最低限の金額までにおこずかいを引き下げるということで決着した。細君としては温情ある裁定であった。まあ、このようなことは今に始まったことではない。懲りるということをまったく知らないあんぽんたんの事でもあるから、これまでの罪状は数々という再犯者である。よって細君の方も慣れてしまっているという。これはあんぽんたんの教育の賜物と言えなくもない。まっこと馴れとは恐ろしい。まあ、そういうわけで活動資金のまったくないあんぽんたんはただいま暇なのである。
 最近は細君のところで過ごすことが多くなった。我輩だってこの家の実権をだれが握っているかぐらいわかろうというものだ。散歩も終わってごろごろしていると王様が夕方の出勤時間になったのか吾輩の腹を踏みつけ頭の上を歩いて出かけていく。まったく空気以下の扱いである。王様は日中を寝まくって夜は全く帰ってこない。そして朝帰ってくるのでドアには猫用のドアがついている。ようするに家にほとんどいないか寝ているだけなのである。吾輩は主か細君に頼みまくって散歩に行くというのに、自由この上ない。この扱いの差は不当である。しかし抗議は無意味なので今日も頭の上の王様を見送った。
 細君は散歩から帰ると必ず吾輩を洗う。女という種族はどうしてこれほどきれいにしておきたがるのか吾輩にはその神経がわからない。犬にとって体を土にごろごろしたり泥の中を転げまわったりするのは効用から言えば虫除けになる。無論楽しい。牛の糞の溜まっているぬかるみなどには狂喜する。汚い、余計なお世話である。臭い、我等には最高に香しい匂いである。まっこと見解の相違である。我らの生態に対してまったく無理解である。しかし女族に抗議するのは無謀である。抵抗は無意味である。必ず洗われる。そして鼻を吾輩の毛に近づけて必ず匂いをチェックする。まだ匂おうものなら更にシャンプーでごしごし洗われる。我が毛と皮膚を防備したる分泌物が消失して外敵に対して無防備となりそこらじゅうに赤い斑点ができるに至って熊五郎に飛んでいった。そしてもらった薬で体はべたべたである。熊五郎曰く、
 「洗いすぎ。」
 ようやくシャンプーごしごしの回数は減るが、それでも毎回水で洗うのは止まらない。「きれい」という文字は女族にとって至上命題なのである。この点に関してのみあんぽんたんは優秀である。まったく匂いも汚れも気にしない。男の鏡である。部屋に上がるとき足を拭くのだけは難点であるが。細君との散歩の帰りのとき、さて洗おうという段になると吾輩この時だけは主に助けを求める。あんぽんたんに弱みを見せるなど決してやりたくはないのだが仕方がない。匂いをたどって走って主を探し、後ろに駆け寄り影より動静を窺う。懲りずに毎回実行するも問答無用で吾輩は回収されてしまう。正に「無慈悲」とは女のためにあるような言葉である。
 「東京タワーに行く。」と言ってあんぽんたんが飛び出した。我輩と出かけると言えばガソリン代は支給されるらしい。東京タワーに着いた。見ただけである。それだけである。
 「昔は親父や兄弟で上まで階段を上がったものだ。」
 それとなく自分の昔の健脚ぶりを吾輩に自慢したいらしい。その後東京タワーから赤羽橋に向かい、首都高速環状線の周りを右回りに回りながら麻布界隈の大使館をこそこそ覗きながら歩き回り、六本木、虎の門、霞が関と行った。あんぽんたんのいつもの出で立ちはこの辺では違和感があるかと思いきや意外と気にならないというのはおかしかった。港区という土地柄かもしれない。首相官邸、国会議事堂を見ながら機動隊の警備車両の横を通り過ぎ、警視庁、そして日比谷公園を抜けたら日比谷通りを下って芝公園に戻った。
 「昔この辺の夜はオフィスラブの観光スポットだったのだけれども今はどうなんだろ。」
 いつもの一人昔語りが始まったのでそっぽを向いていた。しかしどうなのだろう。吾輩たちはひたすら歩いた。そう歩いただけである。吾輩はどこをどう歩こうと匂いを嗅ぎ回るだけなのでいつもと変わらない。しかし人間というものは匂いも嗅がず何もしないでただ歩き回っているだけで楽しいのであろうか。不思議だ。ともあれ吾輩腹が減った。遠くに行くときはドックフード、水持参なのであるが今日はショートコースのつもりだったらしい。何も用意していない。途中ミネラルウォーターを買って飲ましてはくれたが後はなしである。吾輩、うんちもたっぷりして腹はぺったんこである。あんぽんたん、そろそろ帰るべえ。
 だんだん亡くなったという仲間の所に連れて行かれることが多くなった。犬は短命だと言われる。しかし人の言葉は借りているが結局何のことかはわからない。我らにわかるのは亡くなるとその子は見かけなくなるということだけだ。確かに犬というのはよくいなくなる。どこへ行ったのかはわからない。
 シェパードのへーちゃんが亡くなった。細君が吾輩に最後の別れをしなさいと言ってへーちゃんのお姉さんの家に連れて行った。吾輩の前には凍った物がある。その凍った物からはへーちゃんの匂いが少しする。何だろうと思って嗅いでみたが、近づくとあまりいい匂いがしないのですぐ離れた。そのうちその物の周りにいっぱい花が置かれたので匂いがきつくなって余計離れた。細君もお姉さんもその他大勢、いつもお馴染みの顔の人が皆泣いている。白状すれば吾輩そもそも泣くということがないので泣くということがどういうことなのかわかっておらん。しかし何やらその場の雰囲気がそこでぴょんぴょん飛んだり遊んだりしてはならないということを示していることぐらいを理解する繊細さは持ち合わしておる。吾輩は細君の後ろに回ってじっとしていることにした。しばらくしたらへーちゃんのお姉ちゃんがへーちゃんのおやつが残っているから食べていきなさいと言うので家の中に上がってご馳走になることにした。その場を離れてしまいさえすればいつもの吾輩である。おやつである。特に他人の食べ物を頂くのはうまい。当然ぴょんぴょん跳ねている。細君たちはお茶を飲むながら何やらしばらくしゃべっている。家の中にはへーちゃんの匂いがいっぱいするのだが、とうとう最後までへーちゃんには会えずその日は帰った。
 主は暇でも吾輩の耳を引っ張る。何もなくても引っ張る。もともとこの耳を引っ張るという行為を覚えたのは吾輩の折檻のために殴るというのは無駄であると気付いた点にある。骨があるような頑丈な所を殴るのは吾輩には安全であるがあんぽんたんの手には安全ではない。かといって吾輩が痛がるようなところを殴るのは体に毒である。どこか怪我をしてしまうかもしれない。殴るのは得策でない。ちょっと平手で殴るくらいならどこを殴っても問題ない。しかし怒り心頭に発しているときに平手ではちょいと物足りない。そこであんぽんたんは困って色々なことを試してみた。尻尾を引っ張る。面白いがいまいちである。○金を持って持ち上げる。楽しいが吾輩がまるで痛がらないので止めた。迷惑至極である。ケツを叩く。やはり手が痛い。ネックホールド。やはり吾輩全然痛くない。あれやこれやで耳を引っ張った。これはそれほど痛くないのだが実に神経に触る。嫌な顔をしたらあんぽんたんはこれだという顔をした。それ以来吾輩がやることで気に入らないことがあると耳を引っ張るようになった。何度も何度も引っ張られていると痛くなくてもその行為自体がとても嫌なものになった。段々引っ張られた時の吾輩の悲鳴が「ぎゃひぃー」とでかくなる。主はますます得意になって引っ張る。そしてこれが吾輩へのお仕置きの定番になった。
 困るのは細君まで主の真似をするようになったことだ。女というものは人でも犬でもなんでも殴るというのは嫌いなようだ。文句があるときはずっと叫んでいた。それでも癇癪は男より多いので怒りのもって行き場がない。そこへ主のやることを目撃した。実行に力も必要ない。これはいいということになって吾輩は二人から被害を蒙ることとなった。勘弁してほしいが、何かあるとねちねちと仕返しされるよりましだと諦めた。いっとき我慢すれば後はなにもない。さっぱりしている。吾輩は悟るのが早いのである。
 耳のお仕置きは吾輩だけでなくあんぽんたんにとっても結構困るときがある。夜な夜な散歩に行ってつい匂いが気になってあんぽんたんの戻れの命令を無視してしまうことがある。たいていすぐ戻るのであるが、まあたまには戻ることがちょっとだけ遅くなることもある。しかしそういうときのあんぽんたんは容赦がない。思いっきり吾輩の耳を捻りあげる。
 「ぎゃひぃー」
 夜空に冴えわたるような遠くまでよく響く我が叫び声である。都会の事、何事かとそこら中の家の窓という窓が一斉にがらっと開く。あんぽんたんはそこからさっさっと走り去りたいのであるがそれでは完全に不審者である。何事もなかったように吾輩をリードに繋ぎ、ゆっくりとその場を立ち去る。はっはっはっ。天罰である。
 あんぽんたんはよく文化講習会なるものに出かけていくのが好きである。文化人を気取っているようだ。ところが止せばいいのにそんなところにも吾輩を連れて行く。もちろん車の中で待たされるので窓は開けっぱなし。いつものごとく吾輩は車の番をしていなければならなくなる。少しぐらい犬の迷惑考えた方が良い。まあ吾輩にはどこであろうと寝ながら待つことに違いはないのでどうでもよいのではあるが。
 やれやれようやく講習会なるものが終わったらしい。ここはどこかの学校を利用した場所のようで車からは階段から入口に向かってくるご主人がよく見えた。お迎えをしてやろうと吾輩も立ち上がったら主人の傍に女が近寄ってきた。なにやら主に質問をしている。講師の先生の言っていたことがよくわからないと言っているようだ。あんぽんたんは間抜けなお人よしなので丁寧に答えてやっている。とうとう入口近くのホールのテーブルに二人で陣取り始めた。おいおい吾輩が待っているのだぞ。勘弁してくれ。ああ、さらに一人男がテーブルに加わった。これは長くなりそうだ。仕方ない。気長に様子を伺いながら待つことにしよう。
 「今日の講義、よくわからないので教えてください。」
 「あまり時間がないので簡単な説明でよければいいですよ。」
 「偏光と言うのはなんですか。」
 「光は波なんですよ。あの偏光板を使うとその波の特定の向きの成分を除去できるんですね。つまり偏った光だけを取り出せるんです。だから偏光板を二枚回転させたでしょう。あれでどんどん通過できる光が減っていって最後は真っ暗になったわけです。」
 「波ってなんですか。」
 「いや、波自体を説明している時間はないですから、そこは偏光板に光を制限する性質がある。逆に実験から光が波であるということがわかるという事実が面白いと思えれば今日の講義に意義があるので、面白いと思うことが大切なんですよ。細かい内容は徐々に覚えて行けばいいだけです。」
 「計算で使っているコサインってなんですか。」
 「高校で習ったでしょ。」
 「コサインってなんですか。」
 「ですから今日は時間がないので数学の話まではできません。」
 「なぜコサインを使うのですか。」
 「仕方ないですね。コサインと言うのは基本的に円なんですけれども、これも数学的な意味を今日の講義の範囲で知る必要はありません。実験で偏光板を回転させたでしょ。そして通過した光の値の電気的値を測りましたよね。回転させると大きい値から小さい値になり、更に回転させるとまた小さい値から大きい値になる。偏光板を回転させると実際に光の通過量が減るのを確かめたわけです。そして光を波と考え想定して導き出した式と一致しているかを実際に計算して確かめてみたわけです。だから重要なのは理論値と実験値が一致しているかどうかを確認することに意義があって、計算式でなぜコサインを使っているかは今日は重要じゃないんです。もちろんコサインの意味が理解できれば理解は深まりますが、何度も言っている通り、今日は時間がないのでコサインは無視してください。」
 「あの式はどういう意味ですか。」
 「ですから。」
 女は永遠に時間も無視して終わることのない質問を繰り返しておる。説明するために新しい単語が出るたびに迷わずその言葉の説明を求めてくる。何が知りたいのではなく、知らない言葉を知らないのは嫌なのであろう。しかしこれは困った。吾輩あんぽんたんが見えなければ諦めて静かに待っているが、目の前にいるのに待たされるのは御免蒙りたい。周りはもう真っ暗だぞ。吾輩のトイレはどうする。吾輩の飯は。
 「光が波ってなんですか。」
 おいおい、質問が最初に戻ったぞ。あんぽんたんの説明は我輩でもわかるかもしれない、知らない言葉のない順当な説明を聞いても最初から真剣に理解するつもりはないのだからわからないに決まっている。わからないのは相手が悪い。わからないから違う説明をせよ。自分の質問は常に正しい。説明できない方が悪いのであるから、相手はちゃんと質問する義務がある。こりゃ吾輩の散歩の強要より性質が悪いかもしれん。どこをどう回っても終わりがない。相手が悪い。おおい、あんぽんたん。いい加減諦めて吾輩の所に帰って来い。
 「コサインってなんですか。」
 前と同じ質問だ。何が何でも説明させるつもりか。自分は意味のない質問を繰り返せばよいのであるからしてちっとも疲れない。あんぽんたんが質問時間を区切っても時間を無視してお構いなしに質問をしておる。自分の都合はすべてに優先する。そのうえ横にいた男は問答に相槌を打つだけで話にはまるで加わっていない。これまた不思議な男だ。少しは主の応援をせい。あんぽんたんがこれほど辛抱強い男とは思いもしなかった。それなのになぜ吾輩にはすぐポコリとくるのだろう。納得がいかん。
 ともあれこれ以上待たされてはかなわん。吾輩がむくりと立ち上がり吾輩がいることをアピールして仲裁に入るとしよう。おばはんの意地が通るか吾輩の意地が通るか勝負である。
 あれ、突然おばさんが帰って行った。どうやら自分の時間が来たので女はさっさっと帰ったようだ。二人のむさくるしい男が呆気にとられて取り残されている。仲裁に入った吾輩オス一匹もどうしたらよい。せめて帰りの車中であんぽんたんの愚痴でも聞いてやろうか。
 西風とパー子は蕎麦掻に白状させられたのでよく二人であんぽんたんの所に来るようになった。西風はなにやらよく主にからかわれている。今日も主の家に挨拶にきてそのままぶらぶら居着いている。
 「この間水戸のショッピングモールに行ってきました。」
 「野暮なこと聞くけど、二人でかい。」
 「はい。」
 「よく行くなあ。ショッピングモールは広いから大変だったろう。全部見て回るとえらい大変なことになる。そのうえ私なんかこいつと行くとやることないからとずっと待たされて退屈でしょうがない。」
 「二人で行くことなんかたまにしかないのだからそれぐらいいいじゃないですか。」
 「まあ若いから二人で買い物するのも楽しいか。」
 「実はいま二人でグアム行きを計画しているのです。それでちょっと気が早いけれど水着を見に行ってきたのです。」
 「あら、いいわねえ。グアムは時差もないし意外と近いからすぐ着くし。それでいい水着は見つかったの。」
 「おばさま。実は見てもらおうと今日持ってきてるのです。」
 「あら、見して、見して。」
 主も興味津々らしく袋を覗きこんでいる。吾輩も覗こうと試みたが排除されたので遠くから拝見することにした。西風はますます主にからかわれ、土産まで催促されている。
 「こういうものって結構高いのだろ。」
 「ちょっと時期がずれているのでそこそこです。グアムはいつ行っても泳げますからそれに合わせて時期外れに買い物しに行っても大丈夫なので助かります。」
 「グアムは私たちも新婚旅行で行ったのよ。」
 「ええ本当ですか。すてき。じゃあ。どこなんかよかったですか。」
 「そうねえ。定番はやはり恋人岬かしら。」
 「恋人同士が永遠の愛を誓い合って身を投じたって岬だな。身は投じちゃいかんが、恋人と行くにはとてもロマンチックでいいとこだな。」
 西風はちょっと赤くなって黙って聞いている。主と細君は昔を思い出してあれこれと二人に話している。こんなとき吾輩は絶対にひまだ。みんなの足元でごろごろして時間を過ごした。
 「あらもうこんな時間。この子の散歩に行かなきゃ。まだ何もしていないのに。あなた行ってきてよ。」
 「俺はまだ行きたくないな。後で行くよ。」
 おら、あんぽんたん。お前はいつでもひまだろ。
 「ああ、それなら僕らが行きますよ。今日は二人とも特に用事もないですから。」
 「あら、お願いできる。それなら、帰ってきたら一緒に食事にしましょ。」
 外に出られるなら誰であろうと吾輩に問題はない。
 二人はいつもの散歩コースなどは知らないので適当に歩き回った。いつもならあんぽんたんと細君は土の多い、人通りの少ないところを歩き回る。しかし二人は人通りの多い道路側を歩いていった。
 「どうしたの。さっきからよく後ろを振り返っているけれど。」
 「なにか急にまた(蕎麦掻)さんが現れるような気がして。」
 「さすがに今日は会わないだろう。確かにあの人に追及されたりすると何でも話さないといけないような気がしてくるから困るけど。もう気兼ねすることもないし大丈夫だよ。」
 「それはそうなのだけども。なんとなく気になって。」
 「この子もいるし、公認だよ。いこいこ。」
 吾輩は厄除けか安全のお守りらしい。
 「確か駅前にだんごとかたこ焼きを売っているところあったよね。」
 「あるある。」
 「おふたりにお土産を買って帰ろうか。」
 「ええ。」
 二人にとっては知らない犬だが吾輩の仲間にそこらじゅうで逢うのでそう簡単には目的地には着けない。あっちで捕まりごあいさつ、こっちで捕まりご挨拶である。吾輩知名度だけはあるのだ。
 「待って、待って。そんなに引っ張らないで。」
 パー子と西風が吾輩を連れて道路の左側を歩いていると突然彼女の横をブレーキ音とともに風が走り去った。吾輩もびっくりしたが何が起こったのかすぐにはよくわからない。そして西風が消えた。そのときからパー子の世界から音が消えたように見える。目の前には信号機にぶつかって止まっている乗用車。西風はどこにもいない。彼女には自分の吐く息の音ぐらいしか聞こえないのか吾輩の吠え続ける声も無視している。
 「そこに居るわよね。大丈夫よね。」
 妙に頭だけは冴えているようで、何が起きたのかすべてを理解していることを納得したくないようにも見える。彼女の意志とは無関係に、異様な場所を認識してなんだろうと向かう吾輩に引っ張られて、足だけは車の先に一歩一歩ゆっくりと近づいていく。しかし彼女はその手前で立ち止った。そして吾輩には声にならない声が聞こえたような気がする。
 「いや、わたしをひとりにしないで!」

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