「吾輩は犬である」、その11、最終節

十一


 吾輩もこの家にきてだいぶ経つようになった。吾輩も家族の一員として迎えられたのかも知れん。あの一番邪悪な種族であった餓鬼共も吾輩がフライング・アタックをしても逆に吾輩を抱きかかえてしまうようになった。反対に餓鬼どもが吾輩にフライング・アタックを食らわすようなことは決してしなくなった。食らったら吾輩がぺっしゃんこになるぐらい巨大化しおったのだ。人間は大きくなるのが遅いがいつまでもでかくなり続ける。そのときは小さいからといって侮ってはいかんというのは教訓となった。恐ろしいことにあれほど吾輩に無関心だったこの餓鬼どもが時々だが吾輩を散歩に連れていってくれるようにもなったのだ。悪魔がそう簡単に改心するとは思えないので、まったく後で何か起こるのではないかと冷や冷やしている。細君は王様がいなくなってからますます吾輩をかわいがってくれる。王様の代わりなので正に猫かわいがりである。主は「まったく俺の所には寄り付かん」とぶつぶつ言っているが無視している。まあそういうわけなので吾輩もこやつらを吾輩の仲間と認めないわけにはいけなくなっているのである。しかし王様の行進もなくなって吾輩の頭上もすっかり平和となりいささか物足りない。
 最近は部屋の中でもちゃんちゃんこを着ている。細君の自家製である。小さい我が犬族が服を着て歩いていると犬のくせになにを服など着ていると馬鹿にしていたのであるが吾輩もすっかり着せ替えにはまっておる。寒さが堪えるなぞとは恥辱以外の何物でもないが慣れるとこれはこれでよい。普段着は人間様のTシャツである。お古から新調のものまで何でも吾輩の所に回ってくる。静電気も起こらず着心地抜群である。腹巻なんぞはお腹が冷えないので特にお気に入りに入る。これも人間様用で事足りるので安上がりである。弾力があってずれるので少々腹巻としての役をなさなくなるのは困りものではあるが細君が細目にずれを直してくれるので何とかなっている。
 困ったことと言えば、吾輩よく吐くようになった。原因はいまだもって不明である。別段気持ち悪くなるので吐いたまでで吾輩が困ることはないのだが、吾輩が吐くとあんぽんたんがすぐすごい顔をする。これには困った。吐くと何か吾輩が悪いことをしたことになるようなので、吐いたらすぐ伏せて「ごめんなさい」をすることにしている。するとあんぽんたんはとても悲しそうな顔をするので増々吾輩は困ってしまう。そんな気苦労のせいか吾輩ただいまガリガリの骨皮筋衛門になっている。その姿が続いたので、あんぽんたんは熊五郎の所だけでなくいろいろな獣医の所に吾輩を連れて行くようになった。
 町には動物のクリニックだらけなので行く場所には困らない。数なら人間様の医院より多いくらいだ。人間の病院と言う所は行ったことがないので様子はわからないが、動物病院はどこも犬猫だらけなので吾輩どこに行っても楽しい。あんぽんたんは違う病院に行くといつも違うドックフードをもらってきて吾輩に食べさせる。たいてい水っぽくてうまそうではないが、まったく好き嫌いのない吾輩であるからしてすべていつものように平らげる。そしてお決まりのようにすぐ吐く。そうすると増々あんぽんたんの顔はすごい形相に変化する。何も文句を言わないので一層凄味が増している。そしてあんぽんたんはまた別の病院に吾輩を連れて行く。そういえばいつだか一回だけぼやいていた。
 「おまえ、なんで吐くんだ。このままだと危ないのだぞ。わかってるか。」
 わかるわけない。そのうえ気にもしていない。ただいつも腹が減ってしますのでどうにかしてくれと思うだけである。主はしかし吾輩をハグしてぼやく。吾輩ボスのハグは嫌いである。叱られない程度にするりと抜けだして主の後ろに回った。主は吾輩の排泄物を黙って片づけている。
 病院と言うところはたいそうお金がかかるところらしい。人間様の方は医療点数とか言って値段が決まっているらしいが我ら動物病院は我が犬社会の弱肉強食の原理の元、獣医の腹積もりひとつで値段が決まるらしい。そういえば獣医には羽振りのいい人が多い。熊五郎なんぞはつましいほうだ。ちょっと油断すると十万、百万とかかるらしい。病院を替えるたんびにあんぽんたんの顔は厳しくなった。おかげでよくわからないが吾輩なんとなく気まずい思いをしておる。といっても特に吾輩の態度が変わるわけではないが、吾輩だってストレスを少しは溜めることもあるのだ。ストレスとはたまるものだ。だからあんぽんたんのすごい顔を見るとなんとなくその溜まった物がほんの少し顔を出す。ほんの少しだが。ところで実のところ吾輩、お金とはなんなのかちっとも理解をしていない。結局あんぽんたんの顔色から金額の高を計算しているだけである。まあ細君が何も文句を言っていないのでどうにかなっているようだ。
 吾輩も長く生きたせいかすっかり足腰も弱くなった。何かの拍子に蹴躓くようでは四本足の名折れではあるが致し方ない。もともと近くしかよく見えない眼もすぐ横にいる人間ぐらいしか見えなくなった。そのうえ耳までほとんど聞こえなくなってしまった。まあ家の中なら匂いで分かるし、外でも静かな場所を散歩している分には困りはしないのでさして気にもしていない。しかしこの間主と海に遊びに行ったときは焦ってしまった。いつもように海が近くなると匂いでやる気満々になって、止まった車から飛び出し、海まで走っている間に吾輩の頭はぷちっと切れていた。海を見たらやはりドボンである。そこまではよかったのであるが海の匂いで主の匂いはどこかに消え、波の音ですべての音は掻き消え、目には間近の水面以外何も映っていない。ふと正気に戻ると主がいないのに気付いた。我が犬族にとって周りに仲間が誰もいないというのは恐怖の世界である。吾輩はその狂気の虜となった。波打ち際を右へ左へと走り回った。主が見つからない。聞こえぬ耳をそばだて、よく見えぬ目をかっと見開いて周りを見回し、しばらく緊張して立ち、匂いを探ってもみた。それでもどこに主がいるのかわからない。吾輩は砂浜を無茶苦茶に走り回った。突然吾輩は抱きかかえられた。我が主の匂いである。
 「馬鹿野郎、死ぬ気か。」
 主はかなり怒っている。何か相当まずいことになっているようだ。主も吾輩同様息が荒く汗びっしょりなのがわかる。吾輩はびびって伏せの姿勢で地面に這いつくばった。気が付けばすぐ傍を通り抜ける車の音がする。主はすぐ吾輩の首輪にリードを付けたが、いつものようにぽかりとは来なかったのは不思議である。しかしこの怖い一件以来あんぽんたんは外にいるとき吾輩の首輪からリードを外すことは二度となくなったのである。何故このような理不尽な囚われ状態に置かれるようになったのか未だもって理解に苦しんでいるのであるが、恐怖を覚えることはなくなったのでまあ良しとしている。
 犬パーティーには今も出かけて会っている。しかしなぜか見知った犬が少しずついなくなる。どこに行ったのかわからないのだがこれはさびしい。ときには人間様の方がいなくなってしまう。そうすると犬の方もいなくなる。犬どもは誰それに貰われていったなどという噂まで聞く。我ら犬族にとって仲間がいないということほど嫌なことはない。しかし仲間が増えることもあった。吾輩が雨の中細君と散歩に行ったとき生垣と雑草の間に何かいるのを感じて頭を突っ込んで探ってみた。細君がそれに気付いてそこを覗いてみたら息も絶え絶えの生き物を発見した。細君はその生き物をすぐ熊五郎の所に連れて行き、なにやら熊五郎と相談してからその生き物を家に持ち帰った。そしてその後吾輩をそっちのけでその生き物の看病をし続けた。こうして我が家に猫ののび太が新たに加わった。猫は神様であるが、のび太は吾輩が見つけたので兄弟、ブラザーである。
 のび太が来てからおかみさんは少し明るくなった。のび太は病弱なので始終おかみさんはのび太の世話をしている。吾輩ちょっと癪なのでときどきふたりの間に割って入る。別段のび太はブラザーだから意地悪をしているわけじゃない。王様のときと違って二匹でよくじゃれあっている。
 のび太は少し元気になると外に出してもらえるようになった。吾輩が拾ってきた猫であるが、拾ったときすでに大きかったことと、外に出してもちゃんと戻ってくるのでおかみさんはのび太を野良ではなくもともと家猫であったと推測した。のび太の顔は少し陥没している。熊五郎は生まれつきのものだろうという。そのためのび太は元気になっても始終熊五郎のところで色々な余病を治療し続けてもらわないといけない体だった。それで世話をするのが大変になったので捨てたのだろうとおかみさんは憤慨している。そう考えるとおかみさんは更に不憫に思うのかいっそうのび太をかわいがった。吾輩はちょっとジュラシーだがブラザーでは仕方ない。
 のび太は人間だろうと犬だろうと猫だろうと誰にでも愛想がよい。こんな愛想のいい猫を捨てるとは信じがたいことだが、吾輩の憤慨するところはそれとは別にある。吾輩はのび太にとって先住民である。ブラザーである。なのにのび太は自由に外を出這入る権利を有し吾輩は未だ籠の鳥である。これは不平等である。差別である。声を上げて抗議をする無謀は冒さないが、やはり猫は神であったかと再確認する羽目となった。
 あるとき真夜中の散歩から帰ってきたらブラザーが道路の真ん中で腹を出して寝転がっていた。そこは昼間だとかなりの交通量の道路である。主も気が付いて大声で「どけ!」と叫んでいる。ブラザーは呑気な猫なので一向に知らんぷりである。とうとう主は吾輩をガードレールに繋いで道路の真ん中に飛び出していった。ブラザーは主にやさしく押されると遊んでもらえると思ってじゃれるだけで道路の真ん中をどこうとしない。これ以上ぐずぐずしていると猫ともども車の餌食である。仕方なく主はブラザーを蹴とばした。これでようやくブラザーは道路の向こうの空き地に消えて行った。ブラザーは蹴とばされてもそのあと少ししたらまた主の書斎に挨拶にきた。ブラザーはとにかくアホなくらい呑気で愛想がよいのだ。そしてブラザーは王様同様鼻炎がひどいので部屋中に鼻汁をまき散らして帰っていった。
 のび太は吾輩が拾ってやったせいかまったく初めて会った他の犬にでもすぐ近寄っていく。王様はどんな犬も最初から無視だった。他の猫だってシャーだ。ずいぶん猫でも違うものだと認識を新たにした次第である。そして我が家への犬の来訪が増えた。吾輩に挨拶に来たわけではない。この犬とすぐ仲が良くなるのび太に会いに来るのだ。吾輩を飛び越して猫に会いに来るなどとは怪しからん犬どもである。しかし来訪者というものは土産を持って訪れるのが筋というものである。当然みんなのび太に土産を持って訪れる。ついでに吾輩にも土産が付いてくる。これでは吾輩も文句を言うわけにはいかない。尻尾を振って横で歓迎してやることにした。王様の威厳のようなものはのび太には皆無だが、ここまで犬を引き付けるというのはやはり猫とは神様の資質を持つ生き物なのかもしれない。のび太は王様のように吾輩の頭を踏んづけては行かないが吾輩といつも一緒に寝るようになった。吾輩は後見犬として、王様の行進の代わりにのび太の後を付いて歩き、のび太の行進に付き合っている。ともかく王様が居なくなってからの我が家にもようやくまったりとした平和が戻ってきた。
 平和と言えばマッド・ドクターと蕎麦掻の見合いは見事成功して、蕎麦掻は田舎に帰り親父さんの仕事を継いだ。ドクターも転勤となり、我が家がまったく平和となって久しく経つ。おかげであんぽんたんは暇が更に暇になり書斎で一人籠ることが多くなった。暇が過ぎると薄布団の上の吾輩を写真に撮ることもある。黒塗りの絵を描くことは完全に諦めたようだ。黒シャツは出戻りの彼女とまだ一緒だというから不思議だ。パー子は噂も聞かなくなった。息災であろう。
 近くに獣医が開業した。吾輩はこの医者が好きである。どうもかなりの犬好きのようだ。この医者の勧めで食べ始めたドックフードを食べるようになってから吾輩あまり吐かないようになった。おかげで少し太った。まあもともとガリガリだからスマートな元の体に戻ったというだけなのだが。これでいつも通りあんぽんたんも吾輩をどこにでも連れ出してくれるかと期待したが今度は後ろ足がうまく動かなくなった。細君が後ろ足を支えるベルトを作ってくれて吾輩をしょいながら散歩に連れて行ってくれる。しかしこれだと自由にどこにもいけない。大好きな藪のなかはお預けだ。主はどこからか車いすと言うのを見つけてきた。これを着けて動くと一匹で自由に動けることを発見した。
 車いすはとにかく前に進む。どんどん前に進む。止まらない。一直線、超突進である。そしてころりと転ぶ。曲がるということを知らない。
 「あっ、あぶない。」
 転んだら自分では起き上がれない。細君が飛んでくる。これでは藪の中にはいけない。つまらん。それでも一日三回とはいかないが日に一回は散歩に出られるからうれしい。仲間とも一緒に遊べる。しばらく暴走族を続けた。ところがしばらくして前足もよく引っかかって転ぶようになった。危険だからと早々に車いすはお払い箱になった。
 吾輩の足腰が立たなくなってからは十何年も続いた訓練も終わった。やれやれである。それはそれでよかったのだが今度は散歩にほとんど行ってくれない。これは新種の嫌がらせではないかと思うのだが従順な吾輩としては吠えて文句を言うわけにはいかない。それでも細君がときどき乳母車に載せて散歩に連れ出してくれる。あんぽんたんは仕事ばかりしてとんと顔を出さなくなった。ほとんど細君の部屋で寝ている。なるべく部屋の中で後ろ足を細君に支えられながら自分でトイレをしていたが、それでもうまく出ないと細君がけつの穴をほじくり出してくれる。熊五郎に膀胱炎になるからと言われたとかでお腹を押しておしっこを絞り出す。これが痛くて堪らんので逃げ出したいのだが逃げようがない。これも熊五郎によると前立腺癌とかのせいだという。金○を取っていない雄はこいつになりやすいとかで、小さいときに玉を取った方がよいのだそうだ。癌だか何だか知らないが玉を取られちゃ堪らん。ここだけは反対してくれたあんぽんたんに感謝しなけりゃならない。細君は吾輩が小さいころに切っちゃえ、切っちゃえとよく言っていたのでくわばらくわばらである。
 「どうもバカ息子が散歩に行けなくなってから暇でしょうがないな。」
 「一日三回も出てましたからね。よく続けられたものだと感心するわ。」
 「おかげで今じゃ体がなまって、ほら見ろ。このメタボな腹を。」
 「それなら一人でジョギングでもしたらいいのに。」
 「一人じゃつまらん。」
 「久しぶりに買い物にでも行ってくれば。」
 「一人で買い物に出かけるのもつまらん。」
 「それならたまには私を連れてってくれればいいのよ。」
 「お前と一緒じゃどっちが買い物をしに来たのかわからなくなる。結局俺がお前の買い物を待ってる方が多くなるじゃないか。」
 「そんなに買ったりしませんよ。」
 「一か所が長い。」
 邪悪な餓鬼どもも家に居なくなった。二人とも大学生とかいうものになって家を出て別のところで暮らしているという。姉はもうすぐ卒業だとか言っているが何を卒業するのかは吾輩にはわからない。主と細君もどこそこが痛いとか言い出している。我が家で元気なのはむしろ病弱なのび太だけである。
 家にいるのが二人と犬猫二匹になってからはあんぽんたんも書斎にいるより細君と一緒に台所でテレビを見てだらだらと過ごすことが多くなった。もちろん吾輩の薄布団もダイニングに移動した。
 「なあ、女はかわいいかあ。」
 「あら、なによ。」
 「この間ドクターのところで子供ができたっていうのでお祝いの電話したろう。そうしたらこの頃女房がかわいくなってきたなんてのろけるからさあ。」
 「うーん、あの二人お見合いだけれども相性が良かったのかもしれないわね。それにドクターって結構子煩悩ぽくってやさしいから自然と奥さんの方の態度も変わってきたのじゃない。特に子供もできたことだし。そうなれば男の見る目も変わるわよ。ほら女は男で替わるのよ。」
 「化けるってことかい。」
 「そうかもよ。でも嫌われると違う風に化けられるかも知れないわよ。ひゅーどろどろって。」
 「よせやい。」
 話をしながらもときどきおかみさんは吾輩の寝る向きを替えに来る。おかみさんが忙しいとあんぽんたんも吾輩を転がしに来る。お腹の片側が癌とかのせいでいつも痛いのでそちらに転がされるのが嫌だ。駄々をこねるとおかみさんに、「床ずれがひどくなるから我慢しなさい。」と言われて無理やり転がされてしまう。おかみさんにはそれ以上の抵抗は無駄なので諦める。それでも痛いのですぐ元の姿勢に戻してくれる。おかげであまり長い時間は寝かせてもらえない。
 とにかく一日部屋で寝て暮らすので暇だ。かったるい。それでも文句を言ったことはない。誰か誉めてくれてもよさそうなものだが誰も誉めてくれない。あまり体が痛いと少し体を動かして知らせる。やることはないのでおかみさんが何をしているのかをずっと追っかけている。体は動かせられないので後ろに行かれると目だけ動かす。気持ちだけは追いかけている。なぜか周りはとても静かになった。救急車と消防車は相変わらず通過していく。あまり大きな声は上げられなくなったので小さい声で同族に答える。目がよく見えないのは部屋に居れば気にならないのだけれど、誰かが急に触ってくると予想していないのでびくっとする。心臓に悪いのだがすぐ誰だかわかるので問題ない。触ってもらえると誰がいるのがわかるので安心だ。もともとあんぽんたんにだって撫でてもらうのは大好きだったからもっと触ってちょうだい。静かすぎてちょっと淋しくなったら、「ひぃー、ひぃー」と一番大きくあげられる声で少し叫ぶ。そうするとおかみさんが飛んできて軽く触ってくれる。ときどきおかみさんは耳を抑えているがなぜかは知らない。のび太はいつも吾輩の横で一緒に寝ている。散歩にはあまり出られないかもしれないがみんなと居られれば吾輩は満足だ。
 よく見知った犬パーティーのお父さん、お母さんがここ数日よく来訪している。仲間の犬も来て吾輩の周りで騒いで帰っていく。楽しいのでうれしいが、体が動かずうまく応対ができないのがちょっと悲しい。でもうれしいので一生懸命応対した。しかしすぐ疲れるので転寝をしてしまう。目が覚めるとたいていみんな帰ってしまった後だ。ちょっと残念。
 今日はすっかり冷え込む。おかみさんは気圧が急に変ったせいだと、なにやらわからないことを言っている。おかみさんは泣いている。誰が泣かしているのだ。けしからん吾輩が仲裁にでばっていかねばならん。しかし足腰がどうもうまく立たん。あんぽんたんはなにをしているのだ。
 何やら今日は特に来客が多い。よく見えないが、突然大きな顔が我が眼前に現れるのでわかる。これほど多く来客があるのもめずらしい。しかもなぜかみんな吾輩にじっくり挨拶していく。あんぽんたんやおかみさんより吾輩への待遇の方がよろしい。なかなか吾輩もたいじんになったものだ。ちょっと気分が良い。しかしどうも今日は体が引きつっていかん。呼吸もつらい。お愛想もそこそこにしておこう。
 誰かがあんぽんたんはまだかと言っている。主はどこかに出かけているらしい。ひと眠りしたいところだが誰かがあんぽんたんを呼んでいるなら吾輩も待っていなければ義理がすたるというものだな。よし、もう少し待ってみよう。ああ、おかみさんがまた泣いている。何を泣いているのだろう。吾輩細君が悲しそうにしているのが一番悲しい。ここはひとつ頑張って一舐めして慰めてやらねばならないな。よっこらしょっと。どうもうまく起き上がれない。ああ、おかみさんの方から来てくれてハグしてくれた。吾輩細君のハグは大好きだ。うれしい。
 音が静かだなあ。妙に頭だけはすっきりする。体は怠いのに不思議なものだ。今日はみんな吾輩の体を揉んでくれる。撫でられるのは大好きなので、こんなにいっぱい色々な人に撫でられると気持ちいい。気持ちいいと眠くなるなあ。やはりあんぽんたんがなかなか来ないようだ。気持ちいいし疲れたので我慢せずひと眠りしたいところだが、仮にもご主人なのだからご挨拶せねばやはり義理がすたる。おう、でもちょっと睡魔が。
 あれ、いつの間に転寝してしまったんだろう。どのくらい経ったのかな。あんぽんたんはまだかな。なんだかさっきより騒がしいな。どうもおかみさんが悲鳴を上げているように思えるのだが。よくわからない。何事もなければよいのだが。
 おー、あんぽんたんがやっときた。我が主の匂いだ。我がボスだ。ええい、そんなに顔を摺り寄せるな。吾輩、主のハグは嫌いなのだ。しかたない、一舐め。なんとかしたぞ。どうだ。たいしたものだろう。えへへ。これでようやく眠れるというものだ。あー、しんどい。当分は長く寝ていないとだめかもしれんなあ。
 あー、明日の飯はなんだろう。

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