「吾輩は犬である」、その6



 人間というものは実にものぐさのようだ。飯を食うと眠いと言って横になり、外から帰ってくれば疲れたといい横になり、夜は夜でテレビの前でごろごろしている。まったく動こうとしない。吾輩が散歩に連れ出してやらないと運動というものをまったくやらない。無駄なことはしないという点では犬後に落ちず毎日だらだらと寝て暮らす吾輩であるがここはひとつ文句を言おう。ただし犬にとって運動とは何かというような細かいことには頓着しちゃいけない。
 あんぽんたんが珍しく朝から動き回っている。今日は片づけを急に思い立ったようだ。自分の部屋だけは他人に手を付けさせないので掃除もする。いつもなら部屋の隅に蜘蛛の糸が垂れ下がっていたって一向に気にしない男である。細君にたまには掃除ぐらいしなさいとお小言を食らったって平気の平左である。しかしどこでどうスイッチが入るのか急に掃除を始める。今日は掃除の日である。こうなったら吾輩の出番はない。散歩もお預けである。部屋の真ん中で寝転んで様子を見ているしか能がない。主が左に行けば我が目だけが左に向き、右に行けば右に向く。無駄な動きをしたってしょうがない。あんぽんたんが掃除機の先で吾輩の腹を突っつくので横に三歩移動した。移動したらまた突っつくのでもう三歩に移動する。とうとう部屋の縁まで行ったので反対の部屋の隅ならよかろうと思ってそこに寝転んだ。そして暫らくしたらまたあんぽんたんがそこにまで追っかけてきて突っつくので仕方なく廊下にまで出て外から部屋の中を伺うことにした。まったく意固地なしつこい男である。
 部屋の壁には最近とんと見かけない座敷ほうきが逆さに立てかけてある。吾輩も買い物に付き合ったので知っているが、ネットで注文すればいいのにわざわざ店まで行って見て買ってきた。掃除機をかけた後で出涸らしの茶っ葉を畳に巻いてからこの箒で最後掃き出すのだそうだ。茶っ葉には殺菌作用と抗菌作用があると主は言っている。それなら最初から箒だけで掃除すればいいと思うのだが最初に文明の利器を使うのだと断固主張している。それはいいとしても箒を逆様にするのは客を追い返すまじないではないのか。来客があるとまずいのではないか。もっとまずいのは、いくら忘れたからと言って掃除機をかけた後で叩きをかけるのはほこりが落ちてまずいだろう。まあこの場合この後箒を使うからいいか。
 見ているのも飽きたのでそのまま廊下で寝ていたらいつの間にかあんぽんたんは書斎の真ん中で何か見ている。片づけをしていて何か見つけたらしい。掃除機も部屋の真ん中に放りぱっなしである。どうも関心が別の物に移ったようだ。まったく集中力のかけらもない。まあもう邪魔にはされないだろうと思ったので座っているあんぽんたんの膝の上にいつものように顎を載せた。
 どこから見つけてきたのかどうやら小学校の通知表とかいうものを覗いているようだ。
 「どうだ。記憶通り、5段階で3と2ばかりだ。」
 毎度のことながら吾輩に向かって独り言を言うのは危ないと思うぞ。
 「所見欄にも何か書いてあるな。「去年と同じでやる気がない」か。」
 やはり吾輩の性格はあんぽんたん由来のようである。しかし犬じゃあるまいし、中庸をモットーとし平均点以下を自慢して、やる気なしを反省しないというのは人間として如何なものだろう。人間というものはもっと向上心に燃えるものではないのか。平均点でいいのは吾輩だけで充分だ。でも暇があるのなら吾輩と遊べ。
 例によって蕎麦掻が縁側からずかずか入ってきた。これで完全に掃除は終わりである。
 「おい、君は(西風)と(パー子)のこと知っていたのか。」
 「なんだ藪から棒に、急に何のことだ。」
 「その様子ではなんにも知らないようだな。よし、それなら話してやる。実はこの間、渋谷の道玄坂を走っていたら(西風)と(パー子)を見つけたと思え。腕を組んで仲がよさそうに歩いているから、「こら!」と捕まえて俺は詰問したのだ。色々と言い訳をして誤魔化そうとしていたがそうは許したりしない。とうとう二人は今付き合っていると白状した。」
 「ほう、それは初耳だ。まあ、若いふたりだ。それもいいんじゃないか。」
 「おいおい、そう簡単に言うものじゃない。ふたりの馴れ初めというのはこの間の宴会だぞ。結構(パー子)が酔っていたので(西風)に送らせたろう。なんとふたりはあの後すぐできてしまったっていうのだ。奴さん、すっかり送りオオカミと言うわけだ。」
 「それなら俺らにも多少責任があるなあ。」
 「そうだろう。だから俺は言ってやったのだ。こそこそなんて付き合わず堂々と付き合えって。」
 「まあ(西風)ならいいんじゃないか。あの(パー子)も男運のない子のようだから、彼ならけっこううまくいくかも知れん。」
 「あっさりいうなあ。まあ君の舎弟みたいなものだから君がいいというのなら構わんが。」
 「いやいや、しかしあのおとなしい(西風)もやるもんだなあ。少し見直したよ。そんな度胸があるようには見えなかったからなあ。」
 「おいおい、感服してどうする。」
 「はは。まあ俺らにも責任のあるところだから見守っててやろうじゃないか。」
 主もたまには常識人らしいことを言う。蕎麦掻は言いたいことを言ったらすぐ帰っていった。
 昼近くになって今度は玄関から黒シャツが入ってきた。
 「この間はごめんなさい。あいつには、僕に恥をかかせるなときつく言っておいたので。蕎麦掻さんにすっかり叱られりゃいました。」
 「ああ、大丈夫だよ。うまく断っておいたから。」
 うらなりの無心の件を謝りに来たようだ。
 「しかしかなり心臓な男だね、彼は。結局どういう男なんだ。」
 「僕も特に親しいという男じゃないのでよくわかりません。今の彼女が務めている会社に出入りしていて僕も彼女から紹介されたので。何か WEB関係の仕事をしてるらしい。」
 「そうか。」
 細君がお茶を持ってきた。今日は主にも菓子が付いた。
 「ところで今、人の音の好みについて考えているのだが君の考えを聞きたいな。」
 「どんな好みです。」
 「もし人が喋り方を人とはちょっと違う風に変えて趣を替えたいと思って音を変えるとか新しい音を欲したりしたらどうするかね。」
 「まあ日常生活には支障のないようなところから始めるでしょうね。音楽、歌あたりから手を付けるのが妥当でしょうね。日本語は子音と母音との組み合わせ、音節単位に発音するのが基本ですから、母音を小さくしたり無くしたりとか、子音の音を近い別の音に変えるとかでしょうか。まあ音素で見れば日本語も子音が重なる場合は多いですからそれを強調するとかずらすとかするのが手っ取り早いでしょう。」
 「英語っぽくするってことかね。」
 「まあそういう風に言い換えることもできます。」
 「日本語と英語の混じった歌なんか聞くと歌詞がよく聞き取れなくなるのはどうしてかねえ。英語もどきの発音に日本語の音だと思って聞いている脳が追随できなくなっているのかなあとか思っているのだけれども。」
「わたしはそんなことないです。ちゃんと聞き取れる。聞き取れないのはあなただけじゃないですか。」
 「そうかなあ。」
 「まあどちらにしても変化はゆっくりでしょうね。それでも油断してると年寄りは若い者が喋っていることがほとんど分からないなんてことになるかも知れません。」
 「いや、そこまでいっちゃ困る。」
 「あなたが困ると言っても変わるときは変わります。」
 昼をだいぶ過ぎたので細君が食事を用意した。ドクターが来ないかしらとぼやいている。黒シャツと言う男、なんにでも口うるさく、皮肉の一つも言わないと気が済まないという性格をしている。しかしどういうわけかあんぽんたんの家族と一緒に食事をするときなどはいつも静かに食べている。別にまずそうには食べていないのでうまいのではあろう。
 「本当に食事のときは黙って食べているのね。」
 「食事中は無駄話をしないように躾けられました。」
 「確かにお前の話は無駄以外の何物でもないな。」
 「ひどいわね。」
 「大丈夫。俺の話も似たようなものだ。」
 最近は来客があるときは細君が吾輩を散歩に連れて行ってくれる。のんびり散歩して帰ってきてもやはりまだ二人は喋っていた。飯を食って散歩をしたら後は寝るだけだ。二人の話はいい加減に聞いていても大丈夫な話ばかりだから主の横で寝ていることにした。細君はひと片付けし始めているので、終わったらもしかすると吾輩にもおやつがあるかもしれない。そのころもう一度行ってみよう。
 「人の気とか怨念とかは実に恐ろしい。いや別に理のほかを語ろうてぇんじゃない。その人の生前の思いや行動、事の起こりはそのときもその時以降も永遠に消えぬいくつもの波紋のように人やこの世に拡がり、反射に反射を、重なりに重なりを続け、いつかある場所とときに大きな特別な波となってその人の思われ人に届き縛り付ける。回りまわったその思いはだあれも気が付かない。実に恐ろしいもんじゃないかね。まあ人生そのものも波紋みたいなものかもしれんしなあ。」
 「波紋理論ですね。でも永遠に証明できない論法です。言ったもの得と言った方がいいかもしれません。仮定が替わればいくらでも結果を変えられる。例えば波の影響が及ぶ範囲や及ぶものに最小単位があると仮定してそれ以降の影響がキャンセルされると考えれば偏りの変化が少ないより平均的な結果が期待できる。」
 「そりゃそうだが、そう考えた方が面白いじゃないか。」
 「面白いだけじゃだめです。」
 「でも君だってダリは面白いから好きなんだろ。」
 「ダリは別です。」
 「そりゃ不平等だ。」
 「それこそ偏っていていいじゃないですか。」
 そろそろ頃合いかと思って細君の所に行ってみた。阿吽の呼吸でわかるかと細君の顔を見上げたが、まだばたばたやっていて相手もしてくれない。今日はおやつなしと諦めた。今は主の所にいた方が利益があるかも知れないと考えてなおして仕方なくあんぽんたんの所に戻った。
 「さっき(蕎麦掻)さんが来ました。なにやら道玄坂で説教してきたとか。」
 「そっちにも言ったか。まったくあいつは何をしているのか。」
 「道玄坂というと(あんぽんたん)さんとよく行きましたけれど、最近は行かれないのですか。」
 「どうもあの辺へ行くと、ちょっと車を停めていたら消防車が来て揉めたり、車に挟まれて動けなくなったとか、続けて故障したりとか、とにかく車絡みでトラブルが多かったからね。ちょっとうんざりしているので足が遠のいているというわけさ。」
 「電車で行けばいいじゃないですか。」
 「こいつがいる。」
 何か吾輩の事を言っているようだ。また何でも吾輩のせいにしているみたいなので耳だけ話の方に向けて後は関わらないようにした。
 「きっとあそこは鬼門だよ。」
 「また(あんぽんたん)さんの運命論ですか。」
 「いやいや別に気の流れが悪いとか風の通りが悪いなんてことを言ってるんじゃない。ましてや何事も既に決まっておるなんてことを言おうてぇんじゃない。運命なんてのは結果でしかない。結果でしかないから変えようがないって言ってるだけだよ。そんでもって物事にはすべて偏りがある。人がみんなまったく同じ平均点の人生を送るなんてありえないようにすべての事象には偏りがある。だから結果としてあまりよろしくない場所やときというものもあるというわけだよ。」
 「ちょっと失礼。」
 黒シャツの携帯が鳴って席を外した。やや怒鳴り声が庭から聞こえて剣呑な雰囲気である。
 「どうした。」
 「いや親父からの電話ですよ。たまには顔を見せろとか。今度食事でもしようと勝手なことばかり言うので切ってやりました。」
 「おいおい、せっかくの親御さんからのお誘いだろ、行って来ればよかろう。」
 「いつもはほったらかしのくせに都合のいい時だけ電話してくるいい加減な奴ですからいいのです。」
 「うん、それでも気にしてらっしゃるから電話してくるのだと思うのだがなあ。そういえば君のおふくろさんの方はお元気なのかな。」
 「ええ、ご存じのとおりうちは離婚家庭ですから別れてからの方が母は子供も父もいなくてむしろ元気です。ずっと仕事ばかりしています。」
 「そうか元気ならなりよりだ。なんだかんだ言っても親がいなくなるとさびしいものだぞ。ようやっと親の気持ちがわかるような歳になってああすればよかった、こうすればよかったと思っても後悔するばかりで辛いものだ。できることなら親が生きている間に話をしてみるものだ。」
 「うちは無駄ですからいいです。」
 「そうか。まあ親子でもいろいろ確執ってもんはあるわな。でも捨てることができるならすてちゃいなさい、みんなすてちゃえば楽だぞ。」
 「捨てろ」というのは主の口癖である。うつらうつらしていたところを黒シャツの怒鳴り声ですっかり目が覚めた。そうしたらはたと思い出したので言っておこう。
 吾輩ヒップアタックという技を繰り出す御犬を探していたのだが、灯台下暗しであった。なんのことあない、兄貴の事であった。なんでも兄貴のお父さんが帰ってきてドアを開けるのを狙ってこの技を食らわすのだという。この時にしか使わない幻の技なのだそうだ。これはぜひ拝見しにお邪魔しなければならない。しかしここで困ったことに気付いた。幻の技はお父さんが仕事から帰った時だけに繰り出す技である。当然その時間に待ち伏せて待っていなければならない。吾輩が勝手に一匹で兄貴の家にお邪魔したら、道中、恐ろしい奴らに捕まること必定である。ここはどうしてもあんぽんたんに兄貴の家まで連れて行ってもらい、その時間まで待ってもらわねばならない。しかしどうやってあんぽんたんに伝えよう。我らの複雑な言語は人間の理解の外である。うっかり説明しようとまとわり付こうものなら、うるさいとばかりにポカリとやられるのが関の山である。どうしたものかと前足に顎を載せて思案中であるが未だ妙案が浮かばない。ただただあんぽんたんを見つめ続け思案する毎日である。今日も見上げてみたが、無駄話は終わりそうもない。
 黒シャツは彼女が夜勤とかで夜遅くまでいた。黒シャツと言う男、神経が細かいのか不躾なのか無神経なのか、ちゃっかり夕飯も食べて帰った。おかげで細君は散歩に行く気がまるでなく、真夜中にあんぽんたんが吾輩を連れ出した。
 いつも散歩コースをたらたらと行った。主は馬鹿話に疲れたのか真夜中で誰もいないせいか警戒心が抜けて吾輩をほったらかしにするので、あっちの藪こっちの藪と散策を楽しんでいる。ちょいとあんぽんたんの先を歩いていたら広い広場の先に一匹の犬を発見した。どうも犬パーティーで噂になっている犬のようだ。その犬の先に飼い主らしき男もいる。他の犬や人間にまでも咬みつくというのに放し飼いにしているという犬ともども札付きの男だ。そもそもなんの被害を蒙ってもいないのに咬みつくなどというのは小心者のすることだ。人も犬も仲間であるなら怯える必要などない。人間にしたってご同様だ。吾輩は仲間を襲ったりしない。無駄なこともしない。しかし小心者でもない。そして我が犬族の世界が弱肉強食であることも心得ている。向かってくるものにはそれ相応のお相手をする。どうやら向こうもこちらに気が付いたようである。吾輩は四足を踏ん張って警戒態勢に入った。
 馬鹿者はダッシュしてきた。第一撃に応戦したとき、ようやっと相手に気付いたあんぽんたんが走ってきた。吾輩どんなときでも何があろうとあんぽんたんの様子を見ておくことは忘れない。応戦しながら横目で主を見たらものすごい形相だ。あんぽんたんは吾輩がどんな理由で他の犬と争うことになったとしても他の犬と争うことを許さない。必ず後で厳しく叱られる。まずい。仕方ないいつもどおり伏せをして「ごめんなさい」しよう。馬鹿者が覆いかぶさってくる。馬鹿野郎、吾輩はあんぽんたん対策に忙しくてお前の相手なんぞしている暇なんかないのだ。あっちへ行け。ああ、あんぽんたんが来た。あれ、あんぽんたんが馬鹿者にライダーキックを食らわしている。とりあえず今吾輩が怒られることはなさそうだ。しかし取りあえずこのまま伏せをしていないとまずいだろうな。しかしあんぽんたん、大丈夫だろうか。主よ、いかに小心者の間抜けとはいえ、その上に馬鹿が付いた乱暴者は手に負えない。いかに主に勢いがあっても、考えもなしに向かってくるアホと戦うには体力でも保有する武器でもまさっていないあんぽんたんじゃ自分がやられるぞ。どうしたものだろう。助勢した方がいいのだろうか。いやいやいつもの教え通りにじっとしていなけりゃいけない。また後で怒られる。おや、馬鹿者が逃げていく。あんぽんたんが追いかけていくぞ。人間の方の馬鹿者も一緒に逃げていく。
 あんぽんたんが帰ってきた。大丈夫、吾輩何もしていないぞ。ほらこの通り伏せしてじっと我慢している。主は何か気を発していて怖い。ぶるぶる震えているようにも見える。吾輩のせいではない。すいません。勘弁して。
 「大丈夫か。」
 よく見たらあんぽんたんの目がうるうるしている。なんだかよくわからないけど吾輩もうるうるで返さねばならない。しかしどうも吾輩の体は震えていてうまくいかない。とにかくあんぽんたんの横にはついていなければいけない。
 「どこも怪我してないか。」
 我が主は吾輩の咬まれた痕を丁寧に探して、吾輩の体をずっと撫でてくれた。
 「よく我慢した。よく我慢した。」
 なんとか怒られないで済みそうだ。吾輩はあんぽんたんが好きだ。

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